第30回交流会講演会 『突破力』

早稲田応用化学会・第30回交流会講演会の報告

日時 ;2016年9月24日(土)15:00~17:45
場所 :57号館 201教室 引き続き 理工カフェテリアで懇親会
講演者:戸田拓夫氏
株式会社キャステム代表取締役社長
戸田社長の主な経歴
 1980年 早稲田大学理工学部応用化学科中退
   同年 キングインベスト株式会社(現 株式会社キャステム)入社
 1995年 キャステムフィリピン(当時 K2ファインメタル) 社長就任
 2001年 キャステムタイランド 社長に就任
 2006年 株式会社キャステム 代表取締役に就任
 2009年 紙ヒコーキの滞空時間ギネス記録を更新
 2010年 自身の記録をさらに更新

演題:『突破力』

「数々の経営危機を乗り越えて、紙ヒコーキのごとく舞いあがれ」

魚森交流委員長が司会を務め、講演会の案内、講師の紹介、三浦応用化学会会長の挨拶に続き、教員・OB・一般53名、学生19名、合計72名の聴衆を対象に講演が始まった。

講演会場Gallery

戸田拓夫氏の講演要旨

講演は、あこがれていた早稲田大学に入学したものの体調不良でやむなく中退した経緯から始まり、実家の会社に入社後、社業の不振、会社幹部の引き抜き、社員の士気低下、自分自身の体調不良等最悪の状態に陥った時、いかに危機を乗り越えられたかをユーモアを交えお話された。また、入院療養時に紙ヒコーキの魅力に魅せられ熱中した経験が「紙コーキの滞空時間ギネス記録更新」へのチャレンジに繋がり、危機に直面した自分自身と社員の鼓舞のために大いに役立った事、さらに海外事業への展開、紙ヒコーキの凱旋門や宇宙からの飛行等、飽くなき挑戦についてお話をいただいた。

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*工業高校からG大学、早稲田そして入院

早稲田大学、M大学、G大学を受験するも、早稲田大学は受からずG大学に入学し馬術部に入ったが、静かな大学の雰囲気になじめず再受験し、あこがれの早稲田大学に入学した。山岳部に入部し活動していたが、体調を崩し病院に入退院を繰り返し、病院で暇つぶしに紙ヒコーキを折っては飛ばす日々を続けた。病室から100m先の向かいの家に飛ばす目標を持ち試行錯誤を繰り返し、航空力学の本も買って紙ヒコーキに熱中した。

*会社への入社

その後も体調が回復せず、大学を中退し実家の部品工場に入社したが、入社後も体調がすぐれず、会社で一時間程度ペンキ塗りをする毎日だった。入社した会社は乱雑で汚れがひどく、従業員もばらばらな状態。会社の中は従業員の気が緩み、工場長、技術部長は社長の言うことを聞かず、社長の父親は「しょうがない」とあきらめ状態。社員は自分の会社に夢を持てない状態にあった。また会社は製品の質も悪く納期も守らない状態であったため、取引していた商社がその製品の新工場を造り、中核社員を引き抜かれる事態となった。このため26歳で部長の代わりをすることになったが、従業員に夢を語ることは出来なかった。

この状況で思った事

*ノウハウ「0」からの出発

会社にはものを造り上げる技術がない。この確立が急務。製造のノウハウ、原料の調合方法等を得るために、原料の調達先や競合他社、引き抜かれた工場長、技術部長にも直接聞きに行くが、分からない状況が続いた。しかし諦めず、技術情報を集め続けた結果、たまたまある工場に早大の先輩がおり、大学の先輩だけの関係で助けられノウハウを得た。

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*品質の向上

工場は荒れて非常に汚い状況で、最初に工場の整理・整頓・清潔を先頭に立って実践した。また、人材の確保が難しい状況で、自分の行動する姿を見て信じてついて来てくれる少数の部下を見出し、一緒に品質の向上に取り組んでいった。

*体調悪化と克服

工場の整備中体調が悪化し整形へ入院。背骨に大きなずれが生じていると指摘を受けた。医師より矯正の指導を受けたが、自分も矯正法に熱心に取り組み体調が回復。今では自分で背骨の矯正が出来るようになっている。その後登山を再開し体の強化に努めた。

*評価の獲得からMIMの立ち上げ

28歳頃何とか会社として製品が造れるようになり、鋳造品で大型ハードディスク部品を造る技術を確立して品質や価格で大手と渡り合い、評価を獲得し受注が入ってくるようになったが、米国特許による新しい技術のMIM(メタルインジェクション)が出現した。特許料が2億円と高く、資金不足のため技術導入、設備購入が出来なかった。

独自で技術開発を行うしか方法がなく、技術情報を得るためにあらゆる関係先をまわり、試行錯誤を続けた。早稲田での化学専攻の経験を活かし、いろいろな材料の配合などを検討した。京都のある先生にしつこく聞くことでヒントを得て技術を確立。また製造設備を持たないなかで、多くの関係工場を回り製品の製造につなげていった。しかしながら、あるメーカーから米国特許技術の侵害指摘の手紙が回り、国内大手からは注文を断られる事態になってしまった。このため日本中の名もないユーザーを回り、大手MIMメーカーが手を出せない低額の金型の受注を積み上げていった。

この業績を特許侵害の手紙を出状したグループから評価されるまでになり、グループの一員となって設備の導入が可能となり事業が軌道に乗って行った。

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*フィリピンへの海外進出を決意

バブル崩壊の真っ只中で、当時進出先として評価されていなかったフィリピンへ海外進出した。しかしながら97年頃製品在庫が大幅にふくらみ工場運営が悪化した。

*国内外の大幅な改善

「在庫をしない」、「工場の改善・トップセール」をしなければ会社がない」を徹底して社員に教育し、「自分達の作りたいものを作る部署」を設け製品造りを推進した。ミニチュア工具、100万円の名刺、ミニチュア戦艦大和等様々なアイデア製品を開発した。また、あらゆる機会をとらえて自社の技術を売り込んで行った。たとえばバックル商品を開発し、大手ユーザーのH社に飛び込み商品を売り込みに行ったこともある。逆に厳しい品質要求を受け、その対応に苦労し、受注は出来なかったが結果的に他社に納入することが出来た。

*ギネス世界記録への挑戦

リーマンショック当時多くの赤字を抱え社内に元気が無くなった。「社風の暗い会社は良くならない」と考え、社長の戦う姿を見せ社員を鼓舞したいと思い立ち、「紙ヒコーキの滞空時間20秒を超える飛行記録を持つ男は世界に2人」でハードルが高かったギネス記録に、社長として挑戦することを宣言した。

ギネス世界記録の折り紙ヒコーキ室内滞空時間競技には、紙の大きさ、重量、投げ方等様々なルールがある。機体のデザイン、紙材質、投げ方等細部にわたって徹底的に研究していった。滞空時間を伸ばすにはいかに高く機体を投げるかがポイントで、このため自身の減量、筋力・柔軟性の強化等“しなり”を出せる体型造りを行ったり、投げ上げるフォームの開発(イナヴァウアー投げ)も行った。

この結果、2009年4月11日27.9秒と、当時の世界記録を0.3秒短縮しギネス記録と認められた。さらに、この僅差のギネス記録にクレームがありこれに反発。さらにトライし2010年12月19日29.2秒の記録を達成した。

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*更なる挑戦

「安倍首相との出会いと海外進出」

安倍首相が首相を辞任しボロボロの状態の時にお会いし意気投合。2014年に安倍首相の誘いを受け、大手会社社長とコロンビアへのミッションに参加、その後2016年にコロンビアに工場を竣工させた。

「折り紙ヒコーキを凱旋門から」

テレビ番組でトライした。普通許可されないところを関係部署に粘って許可を得て飛ばすも29回失敗。失敗の原因をよく考えることが重要で、凱旋門のアーチの気流の巻き込みに気づき、ピッチング飛行で成功。

「折り紙ヒコーキを宇宙から」

体調が悪い学生時代に考えたMission「折り紙ヒコーキを燃やさずに宇宙ステーションから帰還させる」にトライ。2008年3月JAXAの「宇宙オープンラボ」の公募選考で東京大学共同プロジェクトとして承認され、極超音速風洞でマッハ7での実験で実行可能を確証したが許可が出ず、自力で気球から飛行機を飛ばし実証した。

バカであろうがやること、そして夢をもつこと。その後どうするかが重要なことだ。たとえば1円の紙から作ったスペースシャトルの紙ヒコーキが100円で売れれば100倍の付加価値が生まれる。日本の国は付加価値を得て成り立っている。ものづくりは難しいが、例えば良品率の低いものが上がれば収益は大幅に向上する。無理だと思ったらダメで、もてる知識・人脈を使っていかに粘るかがポイントとなる。将来を担う子供たちには自分の人生は自分で考えなければならないことを教える必要がある。

パネルディスカッションの概要 panel

講演の後、学生5名に登壇をいただき、講演内容を踏まえたパネルディスカッションを行った。ファシリテーターはB4の田中徳裕さんが務め、学生代表としてM1安藤栄悟さん、西田穂高さん、野口詩織さん、B4石原真由さんが登壇した。ファシリテーターより、今回の演題「突破力」について各人の経験を踏まえた思いを発言してもらうことからディスカッションが始まった。

 パネルディスカッション詳細については別に報告があります。

パネルディスカッションの詳細

パネルディスカッション終了時、戸田氏と共にパネリスト全員で聴講者席に向かって紙ヒコーキを飛ばした。もちろん戸田氏の紙ヒコーキが最後まで長く飛んでいた。

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 <懇親会>

交流委員会 関谷副委員長司会のもと、応用化学会 三浦会長の開会挨拶、倉持副会長の音頭による乾杯の後懇親会が開始され、多くの聴講者が参加した。戸田拓夫氏も懇親会に参加され、教員・OB・学生との絆を深めた。橋本副会長の中締め、和田教授の閉会挨拶の後、田中徳裕学生部会副委員長の一本締めで閉会となった。

懇親会場Gallery

 (文責:交流委員 小林幸治)

――― 以上 ―――