酒井清孝教授の最終講義が、2012年1月17日、早稲田大学西早稲田キャンパス内 57号館 201教室で催された。所用のため、午前中に酒井研究室を訪れ、酒井先生に御挨拶したところ、「僕は緊張しているから話しかけないようにね」とのことだった。日頃授業前の準備を周到にされる先生だったが、この最終講義ヘの意気込みは並ならぬものであることを感じさせた。
12時頃にはOB・OGが続々と研究室に挨拶に訪れた。50代から20代の幅広い年齢層である。酒井研究室は、ベッドやシャワー、炊飯器が常備され、研究と生活の場が一体化していた。どの面々も、青春時代を注ぎ込んだ場が、終焉を迎えることに一抹の寂しさを禁じ得ない様子であった。 そして13時、300以上の席が満員となった大教室の壇上に、心なしか緊張を隠しきれない面持ちの酒井先生のお姿があった。司会の菅原義之先生から御略歴の紹介の後、安藤広重の浮世絵のスライドで講演が始まった。
冒頭では、授業におけるパワーポイントの導入や、衛星中継による遠隔講義など、教育のデジタル化の取り組みについて話された。そういえば研究室で便利で新しいIT技術をいち早く取り入れるのは常に酒井先生だった。98系のパソコンの立ち上げに四苦八苦していると、「君、Macintoshならそんな苦労はしないよ」と酒井先生に笑われた。そしてようやくMacを購入し、その操作性に感動していると、今度は「君、まだそれインターネットに繋いでいないの?」と笑われ、舌を巻いた20年近く前のことが思い出された。
このようにユニークな息抜き(他にも「日本に野球を伝えたのは水戸の光圀公」との珍説も飛び出した)を交えながらの講演で、医学と工学の連携の難しさに触れられた。酒井先生が、京都大学の吉田文武先生と双璧を成す、医用化学工学のパイオニアであることは論を待つまい。医学者と工学者の双方に「合従連衡」の重要性を精力的に説かれた。酒井先生が医用工学の研究に着手された時代は、医師と工学者の間に今では考えられないほどの壁があった。医師は化学工学と言う学問の存在を知らなかったし、化学工学者には医療は全く別世界の話だったそうだ。両者の理解を得るのに、まさに中国戦国期の縦横家に匹敵する苦労をなさったに違いない。そして今や、医用化学工学は化学工学の中の一大専門分野である。医療技術の開発に化学工学が不可欠であることは、誰もが知っている。医師と工学者の間の意思疎通も、さほどの苦労は感じない。これは紛れもなく酒井先生の作品の一つでる。 終盤では、新しいことへの信念・失敗に挫けない逞しさ、挑戦する勇気、挑戦する持続力を持てと、学生に熱いエールが送られた。新分野を築かれた酒井先生ならではの重みであろう。どの学生も神妙な面持ちで聞き入っていた。
「科学者は何時までも夢を追い求めていく 科学者の仕事は夢を実現することである」との言葉もあった。私も、学生時代より随分と夢を追ってきたが、それを実現する努力をどれだけしてきたかと警策をいただいた気になった。
講演終了後は、出席した学生全員が起立して「有り難うございました」と酒井先生に向けて一斉に礼を発するサプライズがあった。後で伺って驚いたことだが、その一同の中に酒井先生の御令嬢がいらしたそうだ。血は争えないと言うべきか、意表をついたユーモアがお好きなところが、お嬢様にきちんと受け継がれたようで、大変微笑ましい限りである。
最後に酒井清孝先生の長年にわたる業績をたたえ、懇切丁寧な御指導に感謝するとともに、御健勝と御多幸を心よりお祈り申し上げたい。