(尭星芥Pより)
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昭和34年入学以来、半世紀に亘る交友を続けてきた者として、大変嬉し く又光栄に思う次第です。そこで彼の人となりを紹介いたしましょう。
昭和30年春、日比谷高校(編入)を卒業して応化に入学してきました。
ある日、授業が始まって少し経った頃、教室に入ってきて私の隣に着席しました。授業 は眠気を誘うような進行でしたが、彼は座るや否やノートを取り出したのです。これはしめたと思い、私は自然の成り行きに逆らうことなく眠りに入りました。目が覚めて隣を見ると
相変らず真面目に何かを書いています。ふと覗くと漢字とカタカナの組合せのような、数字も英文字もないものでした。授業が、終って初めて、"僕、趙です"と大変流暢な自己紹介を受けて、それが韓国の両親(?)への近況報告の手紙だったことがわかり、小生の目論見は不発となりました。このことがあって、50年の交際が始まりました。
良く遊び、良く遊びました。偶々13人の気の合うグループが出来上がり、何をするのも 一緒でした。卒業後これをウラン会と名つけて今でも夫婦同伴で海外旅行をしたり、ゴルフ、会食等頻繁に交流を続けています。この中には、交流委員会の田嶋委員長や広報委員会 の並木委員、囲碁クラブの速水名人(?)がいます。話を趙君に戻しましょう。
早稲田卒業後、彼は、ドイツに2年間留学し、その後アメリカ イリノイ工科大学でマスターを
取得しました。帰国後まもなくご尊父が亡くなり、41才で暁星グループのオーナー会長に就任しました。曉星グループ(HYOUSON)は、繊維関係(ナイロン、ポリエステル、ポリウレタン繊維)の最大手メーカーであり、
またタイヤ用コードやスティールコード、PETボトル、ポリプロピレン製造の大手で
もあります。更に大小変圧器、A.T.M機器等々幅広い分野で活躍する、韓国財閥グループの十指に君臨する大企業です。
彼が会長に就任した当時は、韓国経済は、財政危機、バブル、財閥のスキャンダルによる
経済危機等様々な難題に直面していました。彼は、過去を大胆に整理し、いち早くリストラを実行し財界のモデルケースとも言われ、韓国政府からも高い評価を受けました。
韓国内のYOUNG PRESIDENTとしての活躍に止まらず、当時世界YOUNG
PRESIDENT ASSOCIATION の会長にもなりました。
会社の立ち直りと共に、多くの公職にも付きました。日本の女子バレーボールチームが
韓国を大宿敵としていた頃、彼は協会の会長でした。ワールドカップ日韓共催を提案し
日本の財界関係者を説得した影の功労者です。日本のバレーボール関係者が、"そんな馬鹿な事"と一笑に付していた頃、根気良く共催を説いて廻り、ご承知の結果となりました。
財界活動に於いても、韓国経済人連合会副会長、日韓経済協会会長、韓国稲門会会長、太平洋経済協議会(PBEC)国際部会名誉会長等の要職にあります。
今回の応化会奨学金についても、募金委員の一員として絶大な協力をされています。
"早稲田は、自分の人格形成の重要な部分"と言って早稲田をこよなく愛しています。又
"母校を否定する事は、自分を否定する事に繋がる"と言う熱い思いを込めて早稲田の為に尽力されています。
韓国稲門会会長として、奨学基金をベースに、毎年韓国から留学生を早稲田に送り込む制度を作りました。大隈庭園の中に、釣鐘がありますが、これも彼の寄贈です。
息子達が成長したので、もう隠居すると言い出してから2/3年になりますが益々忙しく
しているようです。いずれ彼の貴重な経験と早稲田を愛する熱情に、皆さんと共に触れる
機会が来る事を待望しています。